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「 もったいない 」から生まれた
鎌倉コロッケ

鎌倉でとんかつ屋を営んでいた先代「丸山勇」。
端正こめて作られた食材は“余すところなく使うことが大事”が口ぐせだった。そんな先代は、とんかつを作る際にどうしてもでてしまう肉の端材を捨てることができず「何か」にできないかと考えた。

惣菜との出会い

鎌倉コロッケの生みの親である丸山勇は、昭和6年、静岡県清水市(現:静岡県清水区)に生まれた。
高校卒業後に上京し、東京経済大学に進学。親を頼らずに自分で学費を捻出するため、日々アルバイトに明け暮れていた。学生時代に丸山が主に働いていたのが、神田青果市場にあった仲買い店だ。ここで商いのノウハウを学んだ丸山は、やがて自らの手で八百屋を開業することになる。日々の商売をするなかで彼を悩ませていたのが、野菜を売る際に出てしまう端材だった。一つひとつ丹精を込めて育ててくれた生産者を思うと、そのまま捨ててしまうことに胸を痛めていたのだ。そこで丸山は、端材となった生野菜をかき揚げにして提供することを考案する。
これが、青果市場での経験が生んだ惣菜との出会いとなった。

鎌倉に恋をした

丸山は学生時代、2つの運命的な出会いを果たす。
一つが、のちに妻となる久美子だ。故郷から離れた東京で、同郷出身だった二人は意気投合。そんな二人が連れ立って足繁く通っていたのが、二つ目の運命的な出会いである鎌倉だった。
戦後の混乱も徐々に落ち着きを見せていた当時、鎌倉は東京に近い海辺の観光地として脚光を浴びていた。優しい潮の香りと心地よい潮騒に恵まれた鎌倉の街の雰囲気を、丸山はすぐに気に入ったという。豊かな自然の中で静寂に包まれた寺社を眺めているだけで、日々仕事に追われていた丸山の心は和らいだ。同郷の海辺で幼少時代を過ごした丸山と久美子にとって、特に由比ヶ浜はノスタルジーに浸ることのできる場所でもあった。
この街で将来の夢を語り合い、「いつか鎌倉の街と関わる人生を送りたい」という想いを一つにしたのだった。

食材は余すことなく使う

夫婦で八百屋を営みながら、野菜の端材を使ったかき揚げを販売していた丸山。これが人気を博したことで、さらに豚肉を活用したとんかつの提供も開始。こうした揚げ物のお惣菜を中心に提供していこうとオープンさせたのが、和風惣菜店「するがや」だった。
「するがや」が軌道に乗る一方で、年を追うごとに夫婦で交わした鎌倉への想いも強くなっていった。やはり二人で店を続けるなら、かつて想いを寄せた鎌倉がいい。鎌倉を生涯の商いの地としたい――そこで「するがや」創業から17年を経て拠点を鎌倉に移すことを決意。
平成8年、鎌倉の地でとんかつ専門店として新しいスタートを切ったのだった。しかしここでもまた、食材の余りが丸山を悩ますこととなる。豚肉をカットした際に、わずかに肉が余ってしまうのだ。苦学生であり、なおかつ卸売業者として生産者の苦労を肌で感じていたからこそ、わずかな肉の端材でさえも余らせたくない。「この余った肉をもお客さまに美味しく食べてもらう方法はないだろうか」と、丸山の試行錯誤が続いた。

名付け親はお客さま

とんかつをつくる際の端材を無駄にしたくない。肉の最後の一片までも美味しく食べてもらいたい。そうして新しいメニューを考えていた丸山が辿り着いたのが、じゃがいもとミンチ肉をミックスさせたコロッケだった。
現在における鎌倉コロッケの原型の誕生である。
じゃがいもと豚肉の相性は抜群。牛脂で炒めた玉ねぎをふんだんに使うことで旨味は格段に上がった。生地を丹念に練り上げることでクリームのような舌ざわりが生まれた。実際に店で肉入りコロッケの提供を開始すると、予想以上に反響が大きく、とんかつ専門店ながら手作りコロッケを目当てに来店するお客さまが日を追うごとに増えていった。いつしかお客さまが「これは鎌倉の名物だ」と、“鎌倉コロッケ”の名前で呼び始めることに。
この通称が次第に広まり、いつしか丸山がつくる“鎌倉コロッケ”の名は、多くの人々に認知されることとなったのだった。まさに鎌倉コロッケは、お客さまに愛され、お客さまによって広められた、地元愛が詰まった一品なのである。

先代丸山勇